わかきぬ会前会長へインタビュー

 100周年記念事業の一環として、令和元年までの18年間、東高の同窓会わかきぬ会の会長を務められ、現在は顧問の八木喜代子さんに生徒議会の代表生徒が豊田東高校の歴史についてインタビューを行いました。

 八木さんは、女子高1回生であり、初代の生徒会長としても活躍されました。以下、令和3年度2学期の終業式で放送したインタビューの内容です。

代表生徒(以下、生徒):八木先輩、よろしくお願いします。

八木顧問(以下、役職略):お願いいたします。

生徒:東高校の歴史がこれほど長く、校章も4つ目だということを、初めて知りました。

八木:本校初の校章は、大正13年創立の挙母高等女学校時代のものです。
   当時、待ちに待たれた女子教育の場が、豊田地域に誕生したのです。
   創立当初、生徒募集が大変だったと聞きました。
   これといった産業がなく、女学校は高嶺の花でした。
   女学校の時代は、22年間でした。
   途中、戦争という不幸な時代がその歴史に影を落とします。
   本校の『五十年史』を見ると、「工場支給の作業服とモンペに白鉢巻き、
   肩に防空頭巾と救急鞄をかけて寮と工場の間を隊伍を組んで往復する」
   という記述がありました。
   学業よりも勤労という、苦しい時代でしたが、「見識ある挙母高女」として、
   地域の方々から高い評価を受けてきたと伺っています。
   また、交通事情の悪い時代でしたから、
   遠方から通う生徒は寄宿舎に入りました。
   その後、山間部にも高等学校が創設され、入寮希望者も減少し、
   昭和44年に寮は廃止され、跡地にプールができました。

生徒:今の生活からは想像もつきません。
   学ぶことがままならない時代だったんですね。

八木:本当にそうですね。
   4つ目の学校が豊田東高校です。昭和34年に
   「一県に一校は公立の単独女子普通科高校を創りたい」という、
   当時の文部省などの施策の中、豊田東高校となりました。
   この時代は、女子力が否応なく発揮され、磨かれた、特色ある学校でした。
   緞帳にあるように、四季折々の花が咲き乱れた七州台での東高は、
   50年間続きました。

生徒:八木さんは、本校が県内唯一の女子高校となった、
   豊田東高校時代の1回生ですよね。

八木:私が3年生になる時に、学校が分離・独立しました。
   私は初代の生徒会長をしていましたので、先生方と生徒が一緒になって
   校歌・校旗・校章・制服などを新しく創っていくことに胸を躍らせました。
   現在の校歌は、この時できました。また、制服は、東高生はそのまま、
   西高の女子はセーラー服のカラーの線を1本にして区別をしました。

生徒:高校時代で印象に残っているエピソードはありますか。

八木:本校の伝統行事として、2年生の希望者は、
   先生の引率で富士登山に行きました。
   この登山で、終生の仲良し仲間ができました。
   丸栄ホテルでテーブルマナーもありました。
   冬の寒い日には、お弁当を大きな釜で温めてからいただき、嬉しかったです。
   また、3年生の時、伊勢湾台風がありました。
   被害が甚大で、義援金を集めました。
   わかきぬ会の会長時代は、平成14年に東高派遣団と一緒に
   パスコベール女子校を訪問し、
   日本語クラスの皆さんや先生方にお抹茶のデモンストレーションができました。
   80周年記念事業で、わかきぬ会から体育館に緞帳を贈呈することができました。
   とてもいい思い出です。

生徒:今の校舎でも使われている緞帳ですね。
   最後に、私たち在校生にメッセージをお願いします。

八木:100年の歴史は、地域の方々、先生方、同窓生、在校生の
   皆さんなど、本校を愛し、育ててくださった多くの皆様の
   努力の結晶です。御立の校舎で50年ぶりの男女共学、
   そして総合学科の学校へと生まれ変わって早くも
   15年が経とうとしています。
   夢の実現に向けて頑張る姿に、期待を寄せています。
   どうぞ頑張ってください。

インタビュー後に記念撮影